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独裁者の根底にある心の不安定さ~Vol.22

独裁者の根底にある心の不安定さ

        日本女性ヘルスケア協会長 鈴木まり

7月17日の深夜、2年4カ月ぶりに成田空港から海外へと飛び立ちました。 成田からポーランドへのダイレクト便は乗客数も少なく、ゆっくりとくつろいだフライトでした。

今回の旅の目的は、ウクライナ難民をピーク時には350万人、現在においても200万人という数を受け入れているポーランドの現状、そして、ポーランドで現在避難生活をするウクライナの子どもたちの現状とメンタリティ、戦時中も避難経路としてウクライナ~ポーランド間を運行す鉄道の取材というものでした。

2022年2月に開戦したばかりの頃は、日本のニュースでも大きく取り上げられ、ネットニュースでは軍事侵攻するロシア兵の姿や、破壊されたウクライナの街の様子、シェルターで不自由な避難生活をする女性や子どもたちの痛ましい映像が流れ、遠く離れた日本にいてもニュースを繰り返し目にすることにより、不安症状、ストレス症状、気分の落ち込みを訴える方が多くいらっしゃいました。

最近では、安倍元総理のショッキングなニュース、コロナ第7波のニュースが多くの時間を占め、現在も続くウクライナのニュースが希薄化してきている印象です。

7月18日早朝にワルシャワ・フレディック・ショパン空港に到着すると久々の海外の匂いを深呼吸。ポーランドは、ウクライナ難民受入れのハブともなっているおかげか、PCR検査やワクチン接種証明書などのチェックは一切なく、コロナ以前と同じようにスムーズに入国できます。

空港を後にし、一旦ホテルに荷物を置き、早速ワルシャワの旧市街へ足を運びました。

ワルシャワ旧市街は、13世紀ころから王宮を中心に建設され、発展していった美しい街です。しかし、第二次世界大戦でドイツ空軍による壊滅的な被害に遭います。戦後、ポーランドはドイツとソ連に分割占領され、ワルシャワ旧市街はソ連カラーの街に作り替えられる計画でしたが、「意図と目的をもって破壊された街並みは、意図と目的をもって復興させなければならない」という理念のもとに、ソ連崩壊後、40年もの歳月ののち、レンガのヒビ1つ、絵画のシミすらも厳密に復興再建され、「破壊からの復元及び維持への人々の営み」が評価され世界遺産登録へとなった世界にも稀にみる世界遺産です。

つい先日まで、旧市街の王宮広場にウクライナ侵攻で使用されていたロシア戦車が展示されていたという情報を得ていってみるも一足遅く、戦車は撤去されていました。

旧市街を少し歩くと、窓辺に青と黄色のウクライナ国旗を垂らすアパートメントのお部屋がぽつぽつと目につきます。王宮広場には観光客の合間に、背中にウクライナの国旗を巻いて観光客に声をかけながら歩く少女、少し離れたところには、首からプラスチックボックスをぶら下げて募金活動をしている少年の姿がありました。

私は“声をかけられに”彼らに近づいていきました。

そうすると、募金箱をぶら下げたひとりの少年が綺麗な英語で話かけてきました。 

私は日本人だと伝えると、 

「日本すごく憧れの国なんです!街は綺麗だし、人はみんな優しい。本当に好きな国です!」と少し興奮した様子。 

「アニメ、漫画も好き?(笑)」 

「あはは!もちろんアニメも!」 

彼と話しながら他の少年のポイントへ歩き、数人と話をしました。 

彼らは激戦地ドンバスが故郷の高校生です。戦争が始まってすぐに母親とポーランドに避難して4ヶ月が過ぎます。 

ポーランドで学校へ行けていない子、学校へ行ってもポーランド語が分からず孤立する子、英語が話せるので学校でなんとかやっていけている子、状況は様々です。 

私が行った頃はちょうど夏休みで、英語が話せる子どもたちが一生懸命募金活動をしていたようです。 

彼らは、「今自分たちにとって重要な仕事は、この活動を通してウクライナのことを周知すること、そしてウクライナを支援することだと強く信じている」と力強く話してくれました。 

彼らの父親はウクライナに残り兵士として戦っています。 

一緒に避難してきた母親は、ウクライナでナースや、会社員だったといいますが、ポーランド語を話せないので、ポーランドで定職に就くのが難しいそうです。 

少し酷な質問な質問でしたが、 

「ウクライナのお家に帰りたい?」 

投げかけると、みんな揃って「・・・・I don't know」と大きなため息を何度もつき、目にうっすら涙を浮かべていました。 

「もうお家も壊れていると思うし、帰るなら家を建てなくちゃいけないけどそれも難しいと思う。分からないけど、、、。」 

みんな故郷を離れ、それぞれ他の国で生きていかなければいけないという覚悟があるようでした。 

彼らはこれからこの悲しい現実をどう受け止めて生きて行かなければならないのでしょうか。思えば思うほど、胸が苦しくなりました。 

最後はみんなと笑顔で「Good luck」といいながらハグをして別れました。 

 毅然と振舞う彼らの姿を目の当たりにし、次に浮かんだのは「そもそもプーチン政権はなぜこの子たちを苦しめなければならないのか」ということです。それにはもちろん極寒地のシベリア・ロシア地域では海が凍るので漁業や農業が難しく、クリミア諸島など“凍らない海“へと南下していくしかなかったという風土環境の要素もありますが、今回は、恐怖政治を取り仕切る指導者のメンタリティに触れたいと思います。 

■独裁者の心理経験

心理学を専攻していると必ず通る学習の道に、「アドルフ・ヒトラー」があります。 

今回のプーチン政権によるウクライナ侵攻のニュース報道の「民族粛清・民族浄化」というワードをみて、ヒトラーの顔が浮かんだ方も多いと思います。 

ヒトラーは自身の出生、家族について周りに一切話そうとしなかったことで有名です。ヒトラーの父親も、ヒトラーの祖母でヒトラーの父の母親が42歳の時に未婚で出産しており、相手がだれかということは一切口にしなかったとされています。 

ヒトラーは、「自分の一族の歴史について一切知らない。親戚がいることすら知らない」と生前言っており、“一族”という意識がなかったと言われています。 

通常、一番身近でミニマムな社会性として私たちが認識しているのは“家族”というグループですが、ヒトラーの様に“家族というグループに属している”という認識が薄い場合、彼にとっての所属しているミニマムなグループなどこになるのかということです。それは、ヒトラー自身も語っていた「民族共同体」です。 

更に、ヒトラーの父は、靴職人として下級労働者の貧しい生活を送っていましたが、公務員試験に合格し、飛躍的な出世をし、権威主義の指向を持つようになったと言われています。ヒトラーは幼少期に父から「我々の民族が下級労働で貧しい生活を強いられるのはユダヤ人のせいだ」と言い聞かされていたことも言われています。 

所属意識のある一番初めの入口が「家族」ではなく「民族」であるヒトラーにとって、「ユダヤ人は脅威・悪なんだ」ということが刷り込まれていきました。 

更に、不運かつ恐ろしいことに、ここへ世界最大の偽書「シオンの議定書」の存在が現れます。 

「シオンの議定書」とは、1903年ロシアに出現した事実にない嘘ばかり並べられた本書であり、内容は、“ユダヤ人がいかに悪だくみをして世界征服を狙っているのか”というものでした。これは、ロシア社会にユダヤ人が増え、優秀な能力を発揮するユダヤ人に脅威を感じたロシア帝国の秘密警察が捏造した偽書であり、これを鵜呑みにした、ロシア庶民や世界中の怒りをユダヤ人に向ける為の工作という、とても恐ろしいものでした。 

 このシオンの議定書はヒトラーの手にも渡ります。 

 幼少期から、ユダヤ人に対する不安、自身が所属する民族に対する思いが人一倍強いヒトラーにとって、反ユダヤ主義を加速していくことになりました。 

現代で言うところの危険度の高いフェイクニュースの問題そのものとも言えます。 

さて、プーチンはどのような経緯を辿ってきているのでしょうか。 

 ソ連時代の1952年、サンクトベテルブルクに生まれたプーチンは、小柄で喧嘩っ早い少年だったと言われています。 

 プーチンの父親は、第二次世界大戦中にソ連の秘密警察に協力していた影響か、プーチンも後に、ソ連国家保安委員会(KGB)に入ります。その頃プーチンは、東ドイツに派遣され、ベルリンの壁崩壊に立ち会います。 

 ベルリンの壁と言えば、私も幼少期の頃の“ベルリンの壁崩壊”のニュースは強烈に記憶に残っています。 

 第二次世界大戦敗戦国となったドイツが、アメリカ、フランス、イギリス、ソ連に分割占領され、ベルリンはソ連の占領下におかれていました。 

 東ドイツから西ドイツへの市民の流出が顕著となり、それを防ぐためにベルリンの壁が建築され、ドイツは東西に分断。壁を乗り越えようものなら、逮捕されたり射殺されるという厳しい取り締まりを行っていました。 

 後に、1989年になると、周辺の社会主義国が相次いで民主化し、それらの国を経由して脱出する人も増加し、東ドイツ国内においても、市民による民主化運動が強まっていきました。11月9日の政府スポークスマンの誤った発表をきっかけに、ベルリン市民が壁に殺到。ベルリンの壁は破壊され、世界的なニュースとなりました。 

 恐怖政治で民族粛清、巨大な国を統一してきた歴史の長いロシア、そしてプーチンにとって、ボトムアップの力をまざまざと見せつけられた強烈な瞬間だったことでしょう。 

 この瞬間、プーチン自身も、「人生最大の不安」と語っています。 

 それまでソ連は、ソ連周辺国で起こった民主化運動を鎮圧、成功してきた歴史がありますから、「それが正しいことだ」ということを見てきたプーチンにとってはカラダは震えるほどだったかもしれません。 

人は不安が大きくなればなるほど、その不安を回避しようという行動を起こします。 

プーチンが掲げる「強い国」とは、この様な不安体験、民主化に世の中が変わるという経験のしていないことに対する恐怖心、自身の基盤となっているソ連という存在が複雑に交差して彼の中で“正義”となっているのかもしれません。 

どのような正義であれ、人が人を殺めるというのは絶対に避けて欲しいと願うばかりですが、現在ウクライナの方々も、民主化して間もない、せっかく手に入れた自由を簡単に手放すわけにはいかないと、自身の自由、自国の自由の為に戦っています。   

そして、同じくして、民主化して間もないポーランドも、他人ごとではなくサポートをしています。 

戦前で戦う50代くらいの兵士たちは、民主化前の窮屈で貧しい生活も知っている世代だからこそ譲れないものがあるのです。 

ヒトラーやプーチンを見ていても、幼少体験、家族の存在、おかれた環境、教育というのがいかに大切かというのは分かります。 

難民の子どもたちに、世界の子どもたちにこれらはどのように映っているか。 

ポーランドで出会った子どもたちは、純粋でまっすぐでした。 

どうか、心が歪まず、恨みの連鎖になっていかないよう、私に何ができるのか、大きな宿題を出された旅でした。