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暴力はなぜ愛になるのか~ヤノマモ族から考えるDVの正体


暴力はなぜ愛になるのか~ヤノマモ族から考えるDVの正体
日本女性ヘルスケア協会長 鈴木まり

常識的にはDVは犯罪です。
殴る、蹴る、脅す、支配する。どれも許される行為ではなく、被害者の人生を深く傷つけます。
それなのに、なぜDV問題はなくならないのでしょうか。

警察も法律も整備され、学校教育でも暴力はいけないと教えられています。それでもなお、暴力を振るう人は存在し、暴力的な相手を繰り返し選んでしまう人もいます。

今回は、人間の根本的な部分にどのようにDVが植え付けられているのかを考えてみたいと思います。

その手がかりとして、南米アマゾンに暮らす先住民族「ヤノマモ族」から、今なおなくならないDVについて紐解いていきます。


●ヤノマモの女性

ヤノマモ族の女性はなんと、男から受けた暴力で愛の大きさを競います。

男に物理的に傷つけられた女は、それを喜び誇りとします。

そして、その傷の数を村の女たちと競います。

我々がDVと批判する「傷」の数から

「誰が一番愛されているのか」を判断するというのです。

現代日本人から見れば理解しがたい価値観でしょう。

しかしヤノマモ族において、男の評価基準は非常に明確です。

それは「強さ」です。

・狩りに勝つ強さ。
・敵から村を守る強さ。
・他の男を従わせる強さ。

そのため、攻撃性や暴力性もまた男らしさの証明となります。

女たちは暴力そのものを評価しているのではありません。

暴力を振るえるほど強い男に守られている自分の価値を評価しているのです。

この点では、「外面がよく、ストレス耐久に弱いという人間ほどDV傾向がある」という現代の問題点とは異なって見えます。

ヤノマモ族の高い攻撃性については、慢性的なタンパク質不足との関連を指摘する研究者もいます。

もちろんそれだけが原因ではありませんが、栄養状態や環境が文化形成に影響を与えることは十分考えられます。


●愛情と暴力はなぜ結びつくのか

ヤノマモ族の話を読んでいて、ある現象を思い出します。

DV男性ばかりを選んでしまう女性たちです。

もちろん全員ではありません。

しかし一定数、暴力的な父親のもで育った人が、大人になってから暴力的な恋人や夫を選び続けることがあります。

なぜでしょうか。

それは幼少期の学習にあります。

子どもにとって親は生きる世界そのものです。

親から怒鳴られ、叩かれ、支配されながらも、その親に依存しなければ生きていけません。

すると脳は生き残るために「これは愛情なのだ」学習します。

本来なら恐怖として認識すべきものを、愛情として解釈し直すのです。
そうしなければ心が壊れてしまうからです。

結果として、

「怒鳴る=愛されている」
「嫉妬する=愛されている」
「支配する=愛されている」

という認知が形成されることがあります。

そして大人になった時、自分を苦しめる相手に対してもどこか懐かしさを感じてしまいます。
脳にとっては、それが幼い頃から知っている「愛の形」だからです。

また、学習したことがあることへは対処法も学んできています。
逆に、愛情を受け取ったことがない人が、急に愛情を受け取ると、戸惑ってしまい恐怖心を感じることも多々あります。

人は皆、良し悪しに関係なく、経験してきたことに関して安心感を得るものです。


●人間は元々暴力性を持生き物です

ここで重要なのは、人間は本来とても平和的な生き物だという幻想を捨てることです。

私たちはしばしば暴力を異常なものとして扱います。

しかし進化の歴史を見れば、人類は争い、生き残り、資源を奪い合いながら繁栄してきました。

暴力性は人間の外側にあるものではなく、内側にあります。

だからこそ、愛情と暴力が結びつく現象も起こります。

子どもの頃、好きな子に意地悪をした経験はないでしょうか。

好きだからこそからかう。

好きだからこそちょっかいを出す。

また、私たちは日常的に

「可愛くて食べちゃいたい」

という表現を使います。

もちろん本当に食べたいわけではありません。

しかし心理学では、強い愛情が時に攻撃衝動と同時に発生することが知られています。

あまりにも可愛い赤ちゃんを見て、

「ほっぺをぎゅっとしたい」

「噛みつきたいくらい可愛い」

と感じる現象もその一つです。

愛情と攻撃性は、完全に別の感情ではないのです。

なんなら食事そのものが原始的な暴力とも言えます。

私たちは好きなものを口の中に入れ、噛み砕き、自らの一部にしています。

生命は生命を食べて生きています。

その意味では、愛情と暴力は人間の本能の深い部分で隣り合っているのかもしれません。


●動物たちにも見れる暴力と繁殖

自然界を見れば、その関係はさらに複雑です。

例えばミンクは、雄に噛まれて出血することで排卵が促されることが知られています。

繁殖そのものに攻撃行動が組み込まれているのです。

もちろん人間を動物と同列には語れません。

しかし、人類もまた生物である以上、進化の過程で形成された本能的な仕組みを完全には切り離せません。

ヤノマモ族では、少女は初潮を迎える頃には婚約していることがあります。

また男同士の関係維持のために妻を共有する文化も報告されています。

男は妻を共有することを厭いません。

しかし借りた側は貸した側への「借り」が生まれるため、その後は使い走りのような立場になることもあります。

そこには現代日本とはまったく異なる価値観が存在しています。

私たちが当たり前だと思っている恋愛や結婚の形も、実は文化によって大きく変わるのです。


●「ありがと」が無礼になる世界

文化の違いはさらに興味深いものです。

マレーシアのセマイ族には、「ありがとう」に相当する言葉が存在しないとされています。

なぜなら感謝を口にすることは、

「受け取った人がその肉を測ってみた」
「狩りをした人の成功や気前の良さに驚いた」

という意味合いを帯びてしまうからです。

つまり相手との上下関係を意識させてしまいます。

そのため、むしろ無礼になるのです。

私たちが当然と思っている礼儀も、別の文化では失礼になることがあります。

同じように、暴力に対する認識も文化によって大きく異なります。


●人間は本だけでは生きていけない

ヤノマモ族を見ていると、

「人間は本来、暴力性を持つ生き物なのだ」

という事実が見えてきます。

しかし、それは人間は暴力を振るって当然だという意味ではありません。

むしろ逆です。

人間の素晴らしさは、本能を持ちながらも、それを制御できることにあります。

怒りを感じても殴らない。

嫉妬しても支配しない。

力があっても弱い者を傷つけない。

それが文明であり、教育であり、理性です。

もし暴力が本当に人間の中に存在しないものなら、法律も教育も必要ないでしょう。

必要なのは、人間が本来持つ暴力性を私たち自身が知ることです。

自分の中にも攻撃性があることを認めた上で、それをどう扱うかを学ぶことです。

価値観は教育が生みます。

元々植え付けられている人間の暴力性を、人間は理性で封じ込めることができます。

だからこそ私たちは、暴力を愛と混同しない社会を作り続けなければならないのです。