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自己拡張の心理——人はなぜ「何か」を残そうとするのか~後悔のない人生を送るために 文・日本女性ヘルスケア協会長鈴木まり

人は、自分という存在をどこまで「自分」だと感じているのだろう。

身体だけが自分なのか。それとも、家族や仕事、自分がつくった会社や作品、これまで培ってきた知識や思想、あるいは自分が育てた誰かの中に残っているものまで含めて「自分」と考えることができるのだろうか。

心理学には「自己拡張(self-expansion)」という考え方がある。
アーサー・アロンとエレイン・アロンらによって提唱された理論で、人間には新しい経験や能力、他者との関係などを自己に取り込みながら、自分という存在の範囲を広げていこうとする動機があると考えられている。

例えば、誰かと恋愛をすれば、それまで知らなかった相手の世界が自分の世界の一部になっていく。仕事に長く携われば、会社やプロジェクトを単なる仕事以上のものとして感じることもある。

子どもを育てれば、その子の未来に自分の人生の続きを見ることもある。
つまり私たちは、皮膚で区切られた肉体だけを「自分」として生きているわけではないらしい。
そして、この自己を外側へ広げようとする心理について考えていくと、どうしても避けて通れないものがある。
それは、「死」である。


●死を意識すると、「継続性のあるもの」に執着する

社会心理学には「恐怖管理理論(Terror Management Theory)」という研究領域がある。
人間は動物として「生きたい」という本能を持ちながら、同時に「自分はいつか必ず死ぬ」ということまで理解してしまった生き物である。

この二つを同時に抱えて生きることは、考えてみれば随分と矛盾している。
そこで人間は、肉体そのものを永遠に生かすことができない代わりに、自分よりも長く続くものに自分を接続しようとするようになった。

家族や子孫を残すこともそうだろうし、会社をつくる、本を書く、作品を残す、財産を残す、思想や技術を誰かに教える、宗教や共同体に自分の存在を重ねることもそうである。

自分の肉体はいずれ消える。それでも、自分が関わった何かがその後も存在しているのなら、自分という存在の一部分も未来へ継続しているように感じることができる。

こうした考え方は、死生学などで論じられてきた「象徴的不死」という概念とも重なる。だとすると、何かを残したいという人間の欲求を、単純に名誉欲や自己顕示欲だけで説明するのは少し違うのかもしれない。

それは

「自分という存在を終わらせたくない」

という、生存戦略の延長線上にある心理とも考えられるからだ。


●年齢とともに「自分のため」から「次の世代へ」

ここでもう一つ興味深いのが、発達心理学者エリク・エリクソンが提唱した「世代性(generativity)」という概念である。

エリクソンは成人期、特に中年期の重要な発達課題として、次の世代を育て、何かを生み出し、それを後世へ渡していこうとする関心を挙げた。

若い頃には「私は何者になるのか」「何を手に入れるのか」「どこまで成功できるのか」ということに強く向いていた意識が、人生のある時期から少しずつ、「自分が得てきたものを誰に渡すのか」「自分がいなくなったあとに何を残すのか」という方向へ変わっていく。

これは、子どもを育てることだけを意味するのではない。
後輩を育てることも、技術を伝えることも、社会活動をすることも、文章を書くことも含まれる。

そしてこの変化は「自分の残り時間」を意識し始めるほど強くなる。

10代や20代の頃には、人生の終わりはあまりにも遠い。
ところが年齢を重ね、親の老いや身近な人の死、自分自身の身体の変化などを経験していくと、人生には終わりがあるという当たり前の事実が、知識ではなく実感として近づいてくる。

すると「自分が何を得るか」だけでは、人生というものを考えきれなくなってくる。


●「私を残したい」から「私がいなくても続いてほしい」へ

自己拡張について考えていると、その先にはもう一つ別の心理がある。
最初は「”自分を”残したい」という願望だが、”自分の”名前を残したい、”自分の”会社を残したい、”自分の”作品を残したい、”自分の”血を受け継ぐ子どもを残したい。
そこには当然、「自分」という存在が中心にある。

ところが死というものを現実として受け入れていくと、この欲求は少し形を変えていく。

「私を残したい」から、「私がいなくなったあとも、これは続いてほしい」へ変わっていくのである。自分が教えた人が自分以上の仕事をするようになってもいいし、自分が始めたものが、いつか自分の名前を知らない人たちによって引き継がれてもいい。

自分が誰かに渡したものが、その人から別の誰かへ渡り、最終的には誰が始めたのかさえ分からなくなってもいい。
ここまで来ると、「自分を拡張する」というよりも、「自己を超える」という意味での自己超越(self-transcendence)に近くなってくる。

自分を大きくするのではなく、自分という存在を一つの通過点として考えるようになるからである。

人間は、自分が見ることのできない未来のために木を植えることができる不思議な生き物だ。

私が心理学に興味を持ったのは6歳の頃だが、これも、スペインの巨匠、アントニオガウディが意味不明なほど気の遠くなるサグラダファミリア建築(1世紀を経てもうすぐ完成)に着手したその心理と彼のアイデンティティに疑問をもったことだった。

自分が死んだ百年後の社会を心配したり、何世代も先の人間が使うものをつくったりする。
自分自身の生存だけを考えれば、死後の世界がどうなろうと関係ないはずなのに、それでも未来のことを考える。
そこには、人間にとって「生きる」ということが、肉体の生存期間だけでは完結しないという感覚があるのではないだろうか。


●死は人生に「制限」を与える

もし時間が無限にあるのなら、今着手しようとしていることは果たして「今」である必要があるのだろうか。
例えば、大切な人に愛していると伝えるのも、何かに挑戦するのも、失敗を後悔して傷つけた相手に謝るのも、会いたい人に会いに行くのも、何か自分の痕跡を残そうとすることも、時間が無限になることによって、その価値が薄れるような感覚になる。

いつでもできることは、今やらなくてもよくなってしまう。“幸いにも”私たちは死ぬことだけは絶対として決まっている。その“制限”によって、今日という一日に希少性が生まれるのだ。

スティーブ・ジョブズは2005年、スタンフォード大学の卒業式で、自分が17歳の頃に出会った言葉をきっかけに、毎朝鏡を見ながら自分自身に問いかけてきたことを語っている。

「もし今日が人生最後の日だとしたら、私は今日やろうとしていることを、本当にやりたいだろうか」

これは「明日死ぬつもりで好き勝手に生きなさい」という話ではない。
むしろ、自分に残された時間には限りがあることを前提として、今日の選択を考えるということなのだと感じる。


●現代人から遠ざかった「死」
近年、心理学だけではなく、緩和医療、老年学、死生学などさまざまな領域で、死を意識することが人間の価値観や行動、幸福感にどのような影響を与えるのかが研究されている。

医療が発達した現代では、かつて家庭の中にあった死が病院や施設へ移り、日常生活の中で私たちが直接「死」に触れる機会は少なくなった。

一方で、パンデミックや大規模災害、戦争などによって、それまで遠ざけていた死が突然、現実として目の前に現れる経験も私たちはしている。

もちろん、死を意識すれば人間が必ず賢明になるわけではない。

恐怖管理理論の研究では、死を意識することによって、むしろ自分が所属する文化や価値観を強く守ろうとしたり、自分とは異なる価値観を拒絶しやすくなったりする可能性も指摘されている。

だからこそ、死を恐怖として利用するのではなく、「人生には時間制限がある」という事実を、ときどき自分の生活の中へ戻してみることが大切なのだと思う。

現代人に足りなくなっているものがあるとすれば、それは単純な希望や目標ではなく、「いつかできる」の“いつか”には限りがあるという、少し差し迫った感覚なのかもしれない。

死を考えることは、人生を諦めることではない。

自分には限られた時間しかないと知ったうえで、「それなら私は、その時間を何に使うのか」を考えることである。

そして自己拡張という心理の先にあるものも、結局はそこにつながっているのだろう。

自分が何を手に入れたのかではなく、自分が生きている間に得たものを、誰に、何に、どのような形で渡していくのか。自分という存在を永遠に残すことはできない。

しかし、自分という存在を通過した何かを、未来へ残すことはできる。
死を知っている人間が、それでも未来をつくろうとする。
そこに、人間が持つ自己拡張という心理の面白さがあるのではないだろうか。