映画「平場の月」の3つの要点
日本女性ヘルスケア協会長鈴木まり
先日、友人からチケットを頂き、映画「平場の月」を観てきました。
映画鑑賞は趣味のひとつですが、「平場の月」は、おそらく年内最後の映画館での鑑賞作品になるかと思います。
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離婚を経験した中年の男女がひょんなところで再会し、徐々に距離を縮めていき、お互いに学生時代の初恋の相手だった故にようやくその恋を実らせていく。
しかしそこに立ちはだかる回避できない人生のステージが待っている。
果たしてこの男女は自分の人生をどう締めゆくのか。
青春をやり直すべく、愛する人と向きあうということはどういうことなのだろうか。
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「平場の月」は映画館に行く度にコマーシャル映像が流れていたので、中年者の私もいかにも今後考えていかなければいけないテーマが詰まっているな。という印象でいました。
ところがある日、21歳の大学生の友人から、
「平場の月、井川遥がやばかった。すごい作品だから観て欲しい」
と連絡をもらい、まさかそんな若い世代まで観に行く作品だと思っていなかったので少し驚きました。
恋愛年齢真っ只中の大学生にとって、
「純愛とはなんだろう。人の出会いや別れとはなんなんだろう。」
というところに刺さった作品だった様です。
チケットを譲ってくれた友人は今まさに主人公と同年代の女性。
感情移入が最も強く出る年齢です。
「最後の女性(井川遥演じる主人公)の決断についてどう感じるか観て欲しい」とチケットを譲り受けました。
更に、
「いろんな感情が湧き出て、最後は嗚咽するほど泣いた。孤独性も他人事ではないから、、」
と。
まさに中年期以降の大きなテーマである、
「孤独性との向き合い」
に大きなインパクトを感じていたそうです。
それぞれの友人の感想を胸に映画館に入ると、高齢者の女性が多く来館されていました。
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ネタバレをしてしまいます。
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再会した男女。
お互い独り身だし、時々酒でも飲みながら世間話でもする会でもやろうよ。
学生時代から母親との確執から家庭内が不安定で、「誰にも頼らない」自立性を求められて育った女性。破天荒な人生を過ごし、今は、幼少期から憧れていた「ごく普通の生活」を理想とし、孤独死にも備えて質素な暮らしをする。
タイトルの通り、上等でもなく、下級でもなく、「平場」の幸せの中に身を置き、大病と向き合う。
一方、母親の介護をしながら小さな町工場で働く男性。
友人はまとめて「おまえ」と呼び、凛とした“元妻”と比較するとどこか頼りないが優しい父親でもある。
距離を縮める二人は次第に心を許していきます。
しかし、最後に女性は自分を閉ざし、あるいは弱りゆく自分に恋人を拘束したくない、迷惑をかけたくないなどと、「太い」精神という鎧を覆い、恋人を突き放します。
男性は戸惑いながらも、言ったら聞かない性格も分かってか、「分かった」と別れを受け入れます。
「ただし、来年のおまえの誕生日には旅行行くと約束したんだからそれは果たせ」と約束をさせます。
しかし、その夢叶わず・・・。
男性は最期の看取りもできず、泣き崩れてしまいます。
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友人らから聞いていた、相手を想う純愛。そして孤独性。どれも大切なテーマが詰まっていました。
私はというと。
一番は、心理士の目線で観ていました。
また、がん患者の看取りの経験、介護職時代には看取る家族側の様子も沢山立ち会ってきた経験から次の様なことを感じました。
まずは、
「特別な話のようで、実はよくある話」
です。
つまり、誰でも経験しうることです。
更に、主人公2人の分析に踏み込みます。
まず女性の精神性について、
親が子どもに与える影響は本当に計り知れないことがよく現されています。
誰かに甘えることを経験できずに「太い」という鎧を破き脱ぐことができずに一生を終えてしまう女性。
女性側の立ち振る舞いを見ていると、気丈なのですが、気丈さは、弱さの裏返しです。
50歳を過ぎても、「着せられたもの」というのはなかなか脱ぐことができないのです。
これが人間の心理というものです。
ですので、幼少期時代の家庭環境や大人、仲間の環境とは生きる基礎となる大事なものだと改めて感じるのです。
男性については、
恋人が進行性のがんと知ると、「勉強するから」と言いつつも、一年待ってしまうという能天気な男性。本当に勉強をしていたら、「待つ」ことなんでできなかったはずです。
もっというと、学生時代から彼女の「太い性格」を理解していたら、その殻を破きにいくのが、本当の「向き合い」です。
学生時代は見守るというより踏み込みに行っていた男性。歳を重ね、経験を重ねるうちに「省エネ」になっていくのが加齢でもあります。
この男性は、結果として、「尊重」という名の「回避」を選択したことで、今後の人生に自分で穴を空けてしまうことになります。
男性はいかにも優しく描かれていたのですが、心理士の仕事をしていると、そうは受け取れませんでした。
作品途中に、男性の息子が父親へ、
「いいよな、親父は離婚すればあの人と縁が切れて」
というようなことを言い、いかにも元妻の性格のキツさが原因だと印象づけるシーンです。
そして、元妻も、元夫に
「きちんと息子を叱ってほしい」
と一言いいます。
一般的には、「鬼嫁」と印象付けされることでしょう。
しかし、元妻側の目線で観てみると、日々女性たちから寄せられる夫への不満が脳裏に浮かぶのです。
「父親が子どもに躾や教育をしてくれない、または仕事で"父親不在"で母親が父親役もやらなければならない。父親はいい時だけ見て甘やかして、育児のほとんどを担う母親は子どもから嫌われ、良い時だけしかみない父親は子どもに好かれる」
「優しくありたい」は時として自己中心的に存在になってしまいます。
人の感情には正解がなく、その中心点となる基準もありません。
そして、回避と尊重は似て非なるもの。
臭いものに蓋をすると優しさも全くの別物です。
「人と向き合う」は、「感情と向き合う」ことでもあり、
その相手の人生そのものへ関わるということです。
それは、とてもエネルギーの要ることです。
そしてこれは、批判でも否定でもありません。
人生は、様々なタイミングの流れの中で、出会っては交わり、そして散っていくもの。
これが、人の出会いと別れというものなのだと感じた作品でした。
ぜひ機会があれば皆様も観て頂きたいです。
今自分がどのステージにいるかで、要点が全く違って見えてくる作品です。